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2018年12月31日 (月)

今年一番、小平奈緒・李相花

 スポーツ弁護士のぶさん

              です!

   こんにちは!

お元気ですか!?

2018(平成30)年も終わろうとしています。

寒波来襲の大晦日、

最終の12月31日ですが、

みなさんにとって、どのような一年だったでしょうか。

今年は、

清水寺貫主の今年の一文字が

「災」であったように、

災害の多い年でした。

大阪府茨木市に住むぼくも、

6月18日の大阪北部地震や、

台風21号でそれなりの被害が出ました。

阪神淡路や東日本の大震災・福島原発被災に比べれば、

もちろん、

大したことはないんですが・・・。     

それはそうとして、

年間の、

「平和とスポーツの関係」ニュースで、

ぼくは一番に、

以下に述べる韓国平昌冬季オリンピックでの

女子500㍍スピードスケート、

小平奈緒・李相花の勝負と友情を挙げます。

そして、それは、

ぼくに改めて

スポーツの平和創造機能

確信させる出来事でもありました。

 以下、大阪弁護士会の会報2018年5月号に載せてもらった記事です。

大変長くなりますが、

人間の平和に対する夢と希望、

それは実現する、との思いで読んでいただきたい思います。

平和&スポーツあれこれ

平昌オリンピックと

「スポーツの平和創造機能」

        …小平奈緒と李相花(イサンファ)…
                              憲法問題特別委員会委員

                                     辻口信良

 2018年2月、韓国平昌(ピョンチャン)で冬季オリンピックが開催されました。

アメリカのトランプ大統領による北への斬首作戦・爆撃の恫喝の下、

直前に北朝鮮が参加を表明し、一部南北統一チームが結成されるなど、

久しぶりに「スポーツと政治」が話題になりました。

 ヒトラーがベルリンオリンピックを政治利用したことは有名ですが、

今回はスポーツと平和について考えます。

 ぼくは、

短い期間でしたが事務所のメンバーと平昌オリンピックを観てきました。

1.印象に残るできごと

 「平和でなければスポーツはできない」とよく言われます。

殺戮し合っている中でスポーツはできませんし、

現に1896年に始まった近代オリンピックは、

2つの世界大戦で3回も中止になりました。

 因みに、その内の1回、1940年は東京での開催予定でした。従って、

この「平和でなければスポーツはできない」という言葉は、

もちろん正しいのですが、

ぼくはもう1つ、

「スポーツの平和創造機能」つまり、

スポーツには平和を創る力があることを強調したいのです。

 それを今回、平昌での2つのできごとで確信しました。 

紹介します。

(1)羽生結弦選手と韓国女性

 1つは、フィギュアスケートで優勝した羽生結弦選手が、

韓国で、

特に若い女性に大変人気だったことです。

 怪我から復帰してぶっつけ本番での66年ぶりの五輪2連覇、

これはすごい快挙です。

日本でテレビ観戦された皆さんも感動したでしょうが、

実は韓国での羽生人気もすごいのです。

 ぼくは、それを感じつつ、

以前日本のおばさまたちを虜にした

「冬のソナタ」に代表される韓流ブームを思い出していました。

 つまり、あの韓流ドラマで、日本の女性は、

韓国にも良い物語があり、良い男性がいると思ったのです。

 そんな両国の庶民同士は、戦争や国際紛争を望むのでしょうか。

(2)小平奈緒と李相花

 2つめは、女子スピードスケート500㍍優勝の小平が、

銀メダル韓国・李と抱き合い健闘をたたえ合った光景です。

 二つの国旗と美しい涙がそこにありました。

 李には、冬季オリンピック3連覇がかかっており、小平に負け、

もちろん李選手はとても悔しいはずですし、

韓国国民も勝敗が決まったその時点では、

特に日本人選手に負けたことで、がっかりしたと思います。

 しかし、

ご存じのとおり、私たちが観たのは、

勝敗を超えた二人の友情(平和)でした。
 あの二人の仕草や行動を見て、

「スポーツっていいな」

「人間っていいな」と、みんな心を洗われたと思います。

(3)2つの国の報道

 この2つのスポーツ結果を、日韓の各マスコミは、極めて好意的に報道しました。

 日本の報道内容は、皆さんがご存じのとおりです。具体的に名前を挙げませんが、

排外主義的論調を基調とする全国紙なども、大変好意的に報道していました。

 そして、ぼくは現地(アウェー)韓国で、朝鮮日報やKBSテレビなど韓国のメディアも、

上記2つの競技結果を、とても好意的に伝えていると思いました。

 実際の言葉(ハングル)は、全く理解できませんが、

新聞の写真やニュースキャスターの口調などで、鈍感なぼくでも、

十分その雰囲気は分かりました。

2.「守る平和」と

        「創る平和」

(1)「守る平和」と国連軍

 私たちは平和を語る場合、

戦争から「守る平和」を語ります。

ぼくの理解では、

軍事(武力)による対応をどの程度重視するかの論争です。

 そこでは、軍隊(自衛隊)の力、領土問題、侵略か否か、自国民の優秀さ、

戦争被害などが語られ、

それらを忘れるな、風化させるな等と言われます。                         

これは戦争による破壊からの「守る平和」論争です。

 憲法改正問題など、確かにこの視点からの論争は大切ですが、

現実の複雑な国際情勢から考えると、

この点でのすぐの結論は難しいと思います。

 この「守る平和」について、ぼくは自分自身の結論は持っています。

憲法9条の改正は反対です。

そして「守る平和」でのぼくの結論・ファイナルアンサーは、

ぼくの

「平和学としてのスポーツ法入門」(民事法研究会)でも書いたとおり

「本当の意味の国連軍」を創ることです(276p)。

 ぼくが大学の講義で、学生にもいつも話すのは、国内社会と国際社会との対比です。

 まず国内の治安問題です。

 誰もが知っているとおり、今の日本の治安は、世界の中でも最高クラスの安全さです。

私たちは日常、警察官が治安を維持してくれているので、

安心して毎日を過ごしています。

 比較するアメリカでは、各家庭で、個人が、

何と2億7000万丁もの銃をもって、

自衛(武装)しているんです。

3億人強の人口のアメリカ、

銃を使えない赤ちゃんや、寝たきりの人を除くと、

一人一丁の銃を持っていることになります。

アメリカでは、毎年毎年、

もちろん今年も、銃による大量殺人事件が、何度かありました。

国内の治安、日米どちらが安全かは、比較するまでもないでしょう。

 その対比で考えると、仮に、日本の警察のような組織が国際社会にもあれば、

これをぼくは「本当の意味の国連軍」と言いますが、

現在私たちが各家庭で銃など武器を持たず安心して生活しているように、

各国の自国軍隊は必要ないはずです。

この点、

 いうまでもなくその場合、

国連軍は国際公務員です。

 そうは言っても、鈍感なぼくでも、

「本当の意味の国連軍」を作るのがどれほど困難な作業かは分かります。

 今も話題になる朝鮮半島での「国連軍」も、

多少国際政治を学ばれた方なら、

それが「本当の意味の国連軍」ではなく、

ソ連が安全保障理事会を欠席しているのを奇貨としてデッチあげた、

実質「アメリカ軍」であることは、ご存じでしょう。

従って、本当の意味の国連軍を創ることは、ホント難しく、

現在もありません。

 でも、困難でもこの作業、

つまり「本当の意味の国連軍」を作る作業は、続けなければなりません。

 ぼくは、一方各国の優れた政治家、

そして理想社会を求め世界中から国連に集っている外交官や若者に、

その夢を託したいと考えています。

そして、アジア・太平洋戦争の経緯から、

日本はそれを主導したりアシストする絶好の地位にいるのです。

それでも「本当の意味の国連軍」を創るには、

300年~500年はかかるでしょうが・・・。

(2)「創る平和」とスポーツ


 上記困難な「守る平和」問題と並行して、

ぼくは、それと比べれば簡単な「創る平和」について考えます。

 「創る平和」にはいろいろな手段があります。

具体的には、文学、音楽、絵画、演劇や映画など芸術、

国際姉妹都市協定、留学生交換、

各種NGO組織(ライオンズ、ロータリー等)などです。

そして、これら種々の人的・物的な国際的文化活動による交流を通じ、

「創る平和」を、もっと積極的に考えることが大切だと思います。

 私たちは理性を持った人間です。

だれかれの見境なく殺戮を開始するわけではありません。

 いくつかの外的要因と、

ぼくの言葉では「戦争的ナショナリズム」による洗脳が、

その沸点に達したときに戦争が始まります。

 私たちは、その戦争に至る沸点を冷却できる「理性」を持っています。

それが、「創る平和」の考えです。そして、

ぼくは、「創る平和」に最も相応しいのが、

「権力」にも深く関連するスポーツだと思うのです。

 ぼくはスポーツを、

「楽しみをもって、他人と競り合う刺激をもつ、一定のルールによる、心身の運動」

と定義しています。

 ぼくは、上にも述べた平和を創るためのいろいろな行為の中でも、

スポーツはもっとも意義のある行為だと確信しています。

 この確信を理解していただくため、

次に、そもそもなぜ戦争が起こるのか考えて見ます。

3.戦争の発生原因

 なぜ戦争は起こるのでしょうか。

ぼくは、戦争発生には、

大きく分けて2つの要因があると思います。

(1)外的要因
①領土(資源)的要因…地下資源、海洋資源、漁業資源など。

②政治的要因…相手方の政治体制を否定し自国の政治体制を押しつける。

③経済的要因…階級社会闘争、貧困社会、格差社会。

④宗教的要因…十字軍、アラブ・イスラエル・パレスチナ問題、カシミール、

           IS問題など。

⑤人種・民族・言語的要因…部族間闘争、ナチスドイツ、大日本帝国。

⑥その他…歴史的怨恨、死の商人の存在など。

 過去これらの外的要因が、実際は複雑に絡み合い戦争が発生してきました。

(2)内的要因
 しかしぼくは、これら外的要因の他に、

人間ひとりひとりの内心に存在する要因も加わり、戦争が起こると考えます。

 人間には「権力欲・闘争本能」があります。

 これは人間を含む動植物としての本能として、避けられない属性です。

 ぼくは、この権力欲・闘争本能が、戦争開始、戦争遂行に際し、

上記外的要因と並び、重要な要素・位置を占めると考えます。

 これは本能であり、邪悪とかよこしまなものとして片付けることはできません。

本能ですから最終的な克服はできないのです。

ここで「権力」とは「他を条件付ける力」のことです。

 要するに、他を圧倒したい、ねじ伏せ制圧したい、

君臨したい、自分の子孫を残したい等々。

 そして生き物として、これを払拭し皆無にすることは、残念ながら出来ません。

この権力欲・闘争本能は、殺害、

とりわけ大量殺害としての戦争において、その最も赤裸々な姿を現すのです。

(3)戦争の発生
 当然私たちの先人は、理性により反省し、また歴史上の経験、交渉などにより、

一方で外的要因を減らそうと努力し、

また、内的要因である権力欲・闘争本能についても、

個人としての研鑽や宗教的・倫理的修行などにより、

自制し抑制しようと努めてきました。

 従って論理的にいえば、

これらの外的、また、内的諸要因を少しでも減らすことができれば、

それだけ戦争が回避される可能性も高くなるはずです。

 しかし、実際には、これら外的・内的諸要因が、交差したり重なり合い、

場合により相互に誤解・猜疑心・嫉妬心などを挟み、

それらが増幅して戦争が発生します。

 そのプロセスは単純ではありませんが、

時の各国の権力者が、

多くは危険の外に身を置き、自身の権力欲の満足や保身、延命、

また、戦争により利益を得る

「死の商人」の後押しなどを受けながら、

戦端が開かれるのです。

 そして、一旦戦争が開始すると、

「戦争的ナショナリズム」の赴くまま、

破滅的結果まで行くことも多いのです。

 先のアジア・太平洋戦争もそうでした。

今後考えられる戦争の、最悪のシナリオは、

核戦争による相互破壊、人類の滅亡です。

4.スポーツによる

        戦争抑止機能
 ぼくは、

今述べた内的要因を減らすのに、スポーツが大きな意義を有すると考えます。

 即ち、権力欲・闘争本能を、

スポーツによる競争レベルに「昇華」させ変形させるのです。

端的にいって、

「殺すところまで行かずに闘争本能を満足させる」のがスポーツです。

 前述のとおり、

スポーツは「競争」をその要素とします。

競争は、特に格闘技などでは闘争を意味します。

皆さんも経験されたとおり、

スポーツでの勝負の結果はとても大切です。

 勝負に勝つことは、

権力欲・闘争本能を、十分ではありませんが満足させる機能を有します。

 スポーツ競技において、

勝って嬉し涙を流し、負けて悔し涙を流すのは、

競技者の権力欲・闘争本能が、

勝った方はそれなりに満足し、

他方負けた方はそれが破壊されるからです。

 これまで皆さんだれもが、勝負での、

勝った時の嬉しさ、負けた時の悔しさを経験されたはずです。

 大きな大会、重要な大会や自分が必死に頑張った試合の後、

勝敗いずれにおいても、間違いなく涙を流されたでしょう。

 また、たかだか学校での運動会や、クラス、部活内部の練習試合、

あるいは地域自治会の体育祭、運動会、更には親善競技大会でさえ、

勝ったときの嬉しさ、負けたときの悔しさがあったことを思い出されるでしょう。

 繰り返しますが、そのポーツでの勝利は、

確かに権力欲・闘争本能の十分な満足ではありません。

 しかし、ルールを介在させ、ある程度の満足で終わらせノーサイドの結論に導く、

それが人類の叡智、文化としてのスポーツなのです。

そこにスポーツの良さ、

スポーツの持つ「平和創造機能」があるのです。

5.スポーツは人を殺さない


 ここで、戦争を考えてみます。

 戦争にも、戦時国際法というルールはあります。

 ただ、どれほどきれい事をいっても、

戦争は、所詮多くを殺戮することが最大の目的で、勝利への近道です。

 完全に抵抗できなくするためには、殺すことです。

 しかし、スポーツは、ボクシングなど最も危険とされる競技でも、

人を殺戮することを目的(ルール)にしません。

ボクシングでいえば、ノックダウンしたその時点で試合はストップ、勝者が決まります。

 そしてスポーツは、試合終了と同時にノーサイド。

 勝者が嬉しいのは当然ですが、敗者も負けた悔しさはあるものの、

ルールにより力と技、知恵を出し尽くした結果を認め、勝者を讃えます。

 その試合は、勝者・敗者を問わず、

少し大げさにいえば、それぞれの文化遺産として生涯の財産になります。

 ぼくが、戦争と異なり、スポーツを文化だといい、

スポーツ基本法が前文冒頭で、

「スポーツは、世界共通の人類の文化である」と規定するのは、これを意味します。

 スポーツやオリンピックでの

「勝つことではなく参加することに意義がある」という言葉は、

人生や歴史を長い目で見たとき、より輝きを増します。

平昌五輪での小平と李の関係を想い起して下さい。

6.ナショナリズム


 少し長くなりますが、

この関連で、政治の世界の

「ナショナリズム」を考えておきます。

民族主義などと訳されるナショナリズムも難しい概念ですが、

それは、上記「権力欲」と通底し、戦争時にそれが最も極大化する代物です。

 ぼくは、ナショナリズムについて三つの態様を考えています。

(1)本来的ナショナリズム
 第一は、

「本来的ナショナリズム」というナショナリズムです。

 それは、自分の生まれた国・地域を愛おしむ心、

即ち、慣習・風習・食事・言語・人間関係などを大切にしたいとの、

自然な感性に基づくものです。

これは極めて大切なナショナリズムとして尊重すべきであり、

否定する理由は全くありません。

(2)戦争的ナショナリズム
 その第二は、

戦争時に極大化する

「戦争的ナショナリズム」です。

 これは、理性ある人間としては克服すべき(でも容易に克服できない)心情です。

 後で冷静に考えれば反省すべき邪悪な心情です。

この戦争的ナショナリズムは、

市民や個人というより、国政を担う為政者(権力者)が、常に利用するイデオロギーです。

 過去の戦争時での多くの例はもちろん、

現代の国際政治社会を見ても分かるとおり、

各国の為政者が、排外主義的見地から、常にこれを利用しています。

 内政における国民の不満をそらしたり、権力者の失政を隠蔽するため、

これほど好都合なイデオロギーは、ないからです。

 私たち市民は、権力者の戦争的ナショナリズムの挑発に乗らないよう、

最大限注意する必要があります。

(3)競争的ナショナリズム
 そして、この二つのナショナリズムを架橋する第三の概念として、

ぼくは「競争的ナショナリズム」を考えるのです。

それは、

一方で「本来的ナショナリズム」を大切にしつつ、

他方、排外的な「戦争的ナショナリズム」にまで至らない範疇です。

それは、スポーツでのノーサイドの思想にたどり着くナショナリズムです。

 誰もが有する「権力欲・闘争本能」と「ナショナリズム」を、

ルール化によるスポーツで、競争的ナショナリズムの限度で満足させること、

これが人類文化の地平であるとの考えです。

ここにスポーツの良さがあり、

「スポーツの平和創造機能」に連なる重要な考えです。

 そうは言っても、どこまでがこの範疇かは微妙ですが、分かりやすい例でいうと、

「ニッポン チャチャチャ!」の合唱は(1)でOKですが、

「ジャパニーズ・オンリー」の横断幕は(2)でダメです。

7.スポーツの

      憲法上の位置づけ
 平昌オリンピックを

「スポーツの平和創造機能」と関連させて述べました。

 スポーツ基本法は、

前記のとおり「スポーツは、世界共通の人類の文化である」で始まっています。

これは、「明文のない新しい人権」としての「スポーツ権」を

実定法としてのスポーツ基本法に明文化したものですが、

新しい人権としての理論的説明は、長くなりすぎるので、

別の機会にさせていただきます。

上記34p この「スポーツ弁護士のぶさん」ブログ2017年8月24日ご参照。

 更に、スポーツと憲法では、平等の問題など、いろいろと関連します。

 例えば、ドーピング問題や、

近時のパワハラ・セクハラ問題、

大相撲の土俵に女子が上れないのは平等の理念に反しないのかなど、

興味深い問題もあります。

 いずれにしても、スポーツは若者を中心として行われ、

「創る平和」として決して風化せず、むしろ再生産されます。

 その意味では、残念ながら戦争がないと風化せざるを得ない

「戦争の語り部」や「原爆」とは異なります。

 そして、この「創る平和」の問題を実践し発展させれば、

困難な上記「守る平和」にも好影響を与えます。

 ついでに、「創る平和」には、

スポーツ交流による

「スポーツの平和創造機能」だけでなく、

心身の文字通りの最接近形態である

「国際結婚・雑婚のススメ」も必要であり、

ぼくは大賛成であることも付言しておきます。

「創る平和」については、ぼくの前記

「平和学としてのスポーツ法入門」また、

スポーツ問題研究会編

「スポーツの法律問題 第4版」(いずれも「民事法研究会」発行)をお読み下さい。以上

★ このブログについて

上記内容は、

2018年4月27日の南北首脳(文在寅・金正恩)会談

の直前(4/22)に書いたものです。

 ただ、その後、ご存じのように、慰安婦問題、徴用工問題、つい最近の韓国軍艦艇による自衛隊機へのレーダー照射問題など、

日韓関係はむしろ険悪さを増しているとも言えます。

 そして、

韓国人・朝鮮人は(併せて中国人やロシア人も)信用できないなどとして、

排外主義を煽るヘイトスピーチ的発言も目立ちます。

 しかし、

ぼくは楽観主義であり、その原点は、

「人間は、みんなちょぼちょぼ」主義です。

決して悲観しておらず、平和な国際社会に向けての、大きな歴史の流れを外さないように、来年もまた発言していこうと思っています。

どうかよろしくお願いします。    

それでは、

今日の一曲  

栄光の架橋

ゆずのライブから

 今日は

特に長い文章、最後まで読んでいただき、

本当にありがとうございました 

また、覗(のぞ)いてください。

来年2019年も、よろしくお願いします。

★ 最近は、時間の都合で、ブログではなくFacebookでいろいろと発言させていただいています。

Facebookは、短い内容にしていますが、気付かれた方、お友達になって下さい。

もちろん、あなたさえ良ければ、

ぼくと同じ考えである必要は、全くありませんので!!

詳しくは、

何度も書いて恐縮ですが、

 2020年までに、

平和を愛する人必読の、

増刷された

平和学としてのスポーツ法入門

民事法研究会  2800円+税

を読んでください。

2018(平成30)年12月31日  

        (NO.154)

スポーツ弁護士のぶさん こと

弁護士辻口信良

太陽法律事務所

住所 〒530-0047

大阪市北区西天満4-8-2 

北ビル本館4階

TEL 06-6361-8888

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太陽法律事務所ホームページ

おもろいもんみっつけた

→友人の辻井一基(つじいかずもと君のブログで、

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